師匠シリーズ
先生

この怖い話は約 3 分で読めます。

784 先生  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/09/04(金) 23:26:15 ID:4o0HgrnU0
幻も見えなかった。なに一つ見えなかった。どうしてもう見えないんだろう。
けれど僕は想像する。
そこにいるつもりで想像する。僕のそばに先生が立っている。透明になって立っている。僕の肩に手を置いている。困ったような、はにかんだような、優しい顔で。
風が顔に吹き付けて、それは消える。綺麗に、跡形もなく。
涙を流しきって、僕はぼやける視界で手元を見る。千羽はいないけれど、千切れかけた糸にぶら下がってたくさんの鶴が揺れていた。
その中に、僕は不思議なものを見つけた。
それは不格好に歪んでいる鶴で、胴体は傾き、顔なんか横を向いてしまっている。けれど一つだけ、たった一つだけ格好いい部分があるのだ。
僕は手を高く上げ、その鶴の、戦闘機のように端がくいっと立っている羽を空に翳して、切っ先が風を切る音を聞いた。
夏の終わる匂いをかいだ気がした。

そっと、辞典を閉じる。
小さなころの記憶が夢のようにあふれて、そして消えていった。
辞典を本棚に戻し、大学の図書館にいたことを、ようやく思い出す。柔らかい床が色んな音を吸い取って、あたりはやけに静かだ。
少しのあいだ目を閉じて、ゆっくりと大学生の自分を取り戻す。
ふと、シゲちゃんはどうしているだろうかと思った。随分会っていない。相変わらず親分をしているだろうか。
洞窟の顔入道も、笑ったままだろうか。その奥の誰も入れない密室の中にいるというお坊さんの即身仏は、今も山に彷徨う死者の霊を弔っているのだろうか。
あのころのことを思い返すと、不思議なことがまだいくつかある。
先生の年代であれば、高校から大学へという学歴がおかしいのだ。おそらく高等女学校から高等女子師範学校か、女子大とは名ばかりの私立学校へ上がったのではないかと思うのだが、そのころの僕の思っていた高校、大学という言葉で通じていたというのがよく分からない。

785 先生  後編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/09/04(金) 23:27:54 ID:4o0HgrnU0
ほかにも時代的な素地が違うため、きっと噛み合わない部分があったはずなのだ。けれどそんな覚えはない。会話はスムーズだったと思う。
もしかすると、交わしたと思っていた会話さえ本当は存在しなかったものなのかも知れない。
ただつかのま、うつろな世界のはざかいで魂が触れあい、重なり合い、そして響きあっただけなのかも知れない。
その小学校最後の夏休みが終わり、新学期が始まった時、僕は算数の成績がぐっと上がっていて担任の先生を驚かせた。もっと後で世界史を習った時には、もう忘れてしまっていたけれど。
ふ、と笑いが漏れる。
本棚に戻した辞典の背表紙を見つめる。
全く関係のない調べ物をしていたのに、ふと目に止まった頁に長い時間を隔てた最後の謎の答えがあっけなく転がっていた。そしてそれは僕をひと時の追憶の彼方へと誘ったのだ。

この怖い話にコメントする

「先生」と関連する話(師匠シリーズ)

先生