師匠シリーズ
先生

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512 先生 前編  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/08/21(金) 22:58:57 ID:YUHlb2rI0
師匠から聞いた話だ。

長い髪が窓辺で揺れている。蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとか、そういうざわざわしたものをたくさん含んだ風が、先生の頬をくすぐって吹き抜けて行く。
先生の瞳はまっすぐ窓の外を見つめている。僕はなんだか落ち着かなくて鉛筆を咥える。こんなに暑いのに、先生の横顔は涼しげだ。
僕は喉元に滴ってきた汗を指で拭う。じわじわじわじわと蝉が鳴いている。
乾いた木の香りのする昼下がりの教室に、僕と先生だけがいる。
小さな黒板にはチョークの文字が眩しく輝いている。三角形の中に四角形があり、その中にまた三角形がある。

長さが分かっている辺もあるし、分かっていない辺もある。先生の描く線はスッと伸びて、クッと曲がって、サッと止まっている。おもわずなぞりたくなるくらいの綺麗な線だ。
それからセンチメートルの、mの字のお尻がキュッと上がって、実にカッコいい形をしている。
三角形の中の四角形の中の三角形の面積を求めなさいと言われているのに、そんなことがとても気になる。それだけのことなのに本当にカッコいいのだ。
mのお尻に小さな2をくっつけるのがもったいないと思ってしまうくらい。
「できたの」
その声にハッと我に返る。
「楽勝」
僕は慌てて鉛筆を動かす。
「と、思う」
と付け加える。

先生は一瞬こっちを見て、少し笑って、それからまた窓の外に向き直った。背中の剥げかけた椅子に腰掛けたままで。僕は小さな机に目を落としているけれど、それがわかる。
また、蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとかが風と一緒に吹いてきて、先生の長い髪がさらさらと揺れたことも。白い服がキラキラ輝いたことも。

513 先生 前編  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/08/21(金) 23:01:03 ID:YUHlb2rI0
二人しかいない教室は時間が止まったみたいで。僕はその中にいる限り、夏がいつか通り過ぎるものだ、なんてことを、なかなか思い出せずにいるのだった。

小学校六年生の夏だった。夏休みに入るなり、僕は親戚の家に預けられることになった。その母方の田舎は、電車をいくつも乗り継いでやっとたどり着く遠方にあった。
小さいころに一度か二度、連れてこられたことはあったけれど、一人で行かされるのは初めてだったし、「夏休みが終わるまで帰ってこなくて良い」と言われたのも当然初めてのことだった。

厄介払いされたのは分かっていたし、一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいた僕は、むしろ「帰ってこなくて良い」の前に「夏休みが終わるまで」がくっついていたことの方に安堵していた。
田んぼに囲まれた畦道を、スニーカーを土埃まみれにしながらてくてく歩いていくと、大きなイブキの木が一本垣根から突き出て葉を生い茂らせている家が見えてきた。
この地方独特の赤茶色の屋根瓦が陽の光を反射して、僕は目を細める。
その家には、おじさんとおばさんとじいちゃんとばあちゃんと、それからシゲちゃんとヨッちゃんがいた。
おじさんもおばさんも親戚の子どもである僕にずいぶん優しくしてくれて、「うちの子になるか」なんて冗談も言ったりして、二人とも農作業で真っ黒に日焼けした顔を並べて笑った。

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