洒落怖
電車にて

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奥さんの両目に大粒の涙が浮かんだ。
黒い靄が、わっとひるんだように遠ざかった。
「いるんですか?ここに」
彼女はふくよかな胸元を自らの手でおさえて、歓喜のあまりに滑舌も悪く、ほとほとと涙を顎から滴らせた。
見ているものを、前向きな解釈で述べたまでだ。赤ん坊は、今も、ただ寂しがっている。その感情がたたきつけられてくる。
でも、俺に救うことができるのは、生きている人間だけだ。
赤ん坊に語り聞かせることなんて、俺には無理だ。
「見えませんか」
「見えません。でも、いるんですね。だから、あなたは泣いた」
「はい」
「ああ。まあちゃん。まあちゃん」
赤ん坊の幽体が膨らんだようにみえた。いや、膨らんでるのではない。
まあちゃん、いるのね?ママよと呼ばれる旅に、白さが増していく。黒い靄が一斉に奥さんの顔めがけて殺到した。
赤ちゃんの光がはじけた。黒い靄の一体が俺の顔面めがけてすっとんできて、俺の息子がちょっとだけ汗をほとばしらせた。

「あら?…黒い、靄が…一瞬見えたような」
「………………………トイレ、借りてよろしいですか」
「何か、ご覧にでも?」
「その件は後ほど」

294 電車にて 15 あと3つほどで終了 sage 2011/09/20(火) 03:29:41.37 ID:MpJsRaLP0
トイレをかりて、カバンの中の真新しい下着に着替えた。あやういところでスラックスにはしみずにすんでいた。
営業にいくもの、常に清潔な下着を持ち歩くべしだ。
おかげで大のおとなにもなっておばけみてしょんべんちびったことがバレずに済んだ。

トイレから出てきたときには、奥さんは落ち着きを完全に取り戻していた。
黒いのがいると気づいてからたちっぱなしだった鳥肌もおさまっていた。
墓前に向かって、手をあわせていて、真新しい線香の臭いが鼻をくすぐった。
「…今、凄く晴やかな気分です」
そういえば、まーちゃんの幽霊はどこだと部屋の中を見渡した。
そして、見てしまった。
墓前に向かう、母のその膝の上、かそけく消えかかった白い光が、爆ぜて消えた。もう無理だ。
あかちゃんは最後まで、母親のふくよかな胸に手をのばそうとしていた。俺はもう涙腺様をどうこうすることを諦めた。涙より先に鼻水が垂れた。
黒い靄も、赤ん坊の幽霊も最初からいなかったように、安穏とした空気が漂っている。
たんなるサラリーマンに何があったかなんてわからない。
見たまま、まさしく魂を萌え散らせて母を守った光景にしかみえなかった。
大好き、という思いが俺の心にこみ上げた。同調したのだと気づいた。
目の前の奥さんが、奥さん?違う、まま、大好き。皮膚の感覚が失せていった。

俺の体が勝手に動く。そして奥さんに背後から抱きついた。
「あんまぁ。あんま…あまー。どぅふふふふふ」
俺の口から出た言葉が、信じられないような音色で、本物の赤ん坊の声にドスきかせたようなものだった。
体の自由を取り戻すなり、押し倒してしまった奥さんに頭を下げて、飛び退いた。
「え?あんまって…」
「…す、すみません!すみません!こんなことするつもりじゃなかったんです!信じてください」
「おちついてください。あんまって、何故ご存知なんですか?」
「へ?いや、の、乗り移られたみたいで」
消える瞬間に同調したなんて、言えない。言いたくない。やっと前向きになった女性に涙は似合わない。
「…では、今はあなたのなかにまあちゃんが?」
「あ、え…」言えないんだよド畜生!

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