師匠シリーズ

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371 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ猿 2009/10/02(金) 23:52:54 ID:o7OYvvFV0
「戦時中のことです。今それを非難するつもりはありません。しかし戦争が終わって新しい生活を送り始めても、あなたにはその凄惨な記憶ががずっと圧し掛かっていた。夜、うなされただろうと思います。死者の恨み、怨念を恐れたはずです。
日々得体の知れない物音に、気配に、怯えていたでしょう。だから……」
師匠は立ち並ぶ刀剣に目をやった。
「勉強会で人を斬ったという刀を見てから、あなたは『上書き』を考えたのです。あるいは無意識に。人を斬り殺した刀が家にあれば、そんな気配や物音も、すべてその刀に憑いているものと思い込めるからです」
そうか。
分かった。
そのために霊能力を雇って来て、そのお墨付きを貰いたかったのか。
倉持氏はなにも言えずにだだ呼吸だけが荒い。鞘の中で刀がカタカタと鳴っている。
「今日私はこの家にお邪魔して以来、なんの霊的な気配も感じませんでした。それは刀を見ても同じでした。しかしそんな霊は刀に憑いてはいないという先ほどの返答とともに、どこにもなかったはずのこの霊気が吹き出してきました。
今まで自分を苦しめた悪霊が、自分ではなく刀に憑いていたものなのかも知れないという期待感によってさっきまでその存在を保留されていたからです。斬った軍刀はここになくとも、死者の一部はあなたの心の中に残っていた。
それが私の言葉で存在を肯定され、湧き出して来たのです」
こうなってはもう。
と師匠は言った。
「死者の念なのか、あなたの心が生み出したものなのか、区別がつけられない」
嘲笑が周囲から流れてくるような錯覚があった。気持ちの悪い気配が、薄くなったり濃くなったりしながら周りを漂っている。
気がつくと鞘の音が止まっていた。
「なにをいう。なにを……なにを……わかったような……」
ぼそぼそと口の中で繰り返す倉持氏の目に暗い色が灯っている。その目は師匠を睨み付けていた。正常と異常の境でわだかまるような目の色だった。

372 刀  ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/10/02(金) 23:57:00 ID:o7OYvvFV0
空気が張り詰める。座ったまま、重心が少しずつ動いていく。そろそろと鞘を腰に押し付けていく。
居合いをやっている! この老人は。
無数の針で刺されるような殺気を感じながら、自分の汗が引いていくのが分かる。
師匠との距離は、間合いだ。
息が短く、荒くなる。
左手の親指が鯉口にかかる。
右手の指が柄の下に隠れる。
すべての動きが止まる。
抜く。
そう思った瞬間、僕は機先を制して手元にあったガラス製の灰皿を指に引っ掛けるようにして、投げつけていた。
「あっ」
という声がして、同時に柄の先に硬いものが当たる衝撃音がした。
老人は左手を押さえ、脇差は鞘に収まったまま畳の上に落ちる。周囲のざわざわした影たちが一瞬で引いていく気配があった。
「貴様ッ」
物凄い形相で唸る老人を尻目に、僕は目の前の師匠の肩を抱いた。
「逃げますよ」
有無を言わせず抱きかかえるように走り出そうとする。
師匠はそれに抵抗しようとはしなかったが、ただ一言、老人に向かって短く言い放った。
「業だ。付き合え。一生」
そして畳を蹴って部屋を出た。
出るとき、ぬるん、という嫌な感触があった。自分を包む空気が正常に戻る。
背後からわめき声が追いかけて来る。正気が疑われる。危険だった。
廊下を走り抜け、玄関の靴を持ち、履く余裕もなく太陽の下に飛び出てから石畳の道を一目散に駆けた。
自転車に飛び乗り、師匠の重さが加わるのを確認してからペダルを思い切り踏んだ。
「あ」
と背中から師匠の声。
ギクリとして、それでも自転車をこぎ出しながら「なんです」と訊いた。

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