師匠シリーズ
引き出し

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167 引き出し ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/02/22(日) 23:45:11 ID:vbLvaS0Q0
恐れるようなものはなにもない。
あの気配は錯覚だったのか。
その時、背後からまた悲鳴が上った。全く予期してなかったので、飛び上がるほど驚いた。
それでも振り返り、ベッドの方を見る。
音響が口を押さえながら震える指先で瑠璃の右手首を指している。パジャマの裾から細い手首が覗いているのだが、その異様なほど白い肌に、濃い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
それは、人間の手の平の形に見えた。手首を掴み、ありったけの力で握り締めたような痕跡……
泣き出しそうなほど怯えている音響に対し、当の本人はきょとんとして事態を把握しているのかどうかも分からないような顔をしている。低血圧の人間の寝起きだからなのか。
俺はとっさに暴漢の可能性を考えた。一人暮らしの女性の部屋に忍び込む、不埒な輩。
だが入り口には鍵が掛かっていた。それはこの俺自身確かめている。
すぐにカーテンの隙間に手を突っ込み、この寝室の窓に鍵が掛かっているのを確かめる。そして二人を残したまま隣の部屋に移動し、すべての窓と、ベランダへの出入り口に鍵が掛かっているのを確認した。
念のために風呂やトイレの中も勝手に開けて中に誰も潜んでいないか調べる。
広いとは言っても所詮マンションの部屋だ。すぐに俺たち三人以外誰もいないことは分かる。
ということは、俺と音響がやってくるまで、このマンションの部屋は密室状態だった。
そしてあの痣を見るに、ついてからさほど時間が経過していないだろうということを合わせて考えると、合理的に出せる結論は一つしかない。
俺はすぐに寝室に取って返し、まだベッドから起き上がらない瑠璃の右手首を掴む。
そしてじっくりとその痣の跡を見る。
特徴的な部分がある。四本の棒とその向かい側の一本の棒。その位置関係をしっかりと確認する。
左手だ。
169 引き出し ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/02/22(日) 23:48:30 ID:vbLvaS0Q0
彼女の右手の手首にこの痣をつけたのは誰かの左手。
そしてその誰かとは……
彼女自身。
「なにするの」
音響が抗議の声を上げる。
これは自傷行為の一種なのか。引き出しから出てくるという白い手も、彼女の妄想の産物なのだろうか。あるいは毎晩引き出しを開けていたのも彼女自身なのかも知れない。
自分のしていることを、まるで他人にされているように感じる精神障害があるらしいが、この少女も、そういう心の病を抱えているのだろうか。
そう考えていると逆にゾッとするものがあった。
だが次の瞬間、俺の目は信じられないものを見た。
瑠璃が、俺に掴まれた右手を取り戻そうとするように、もう片方の左手をのろのろと伸ばして来た時だ。
そのパジャマの裾がずれて手首が露になる。
そこには右手の手首と全く同じ形の痣が浮かんでいた。
思わず息を飲んだ。
痣。
左手首にも、痣。
向かい合う、四本の棒と、一本の棒。思い切り握り締められたような跡。
左手首に、左手の跡?
俺は自分の手の平を凝視して、人間の指の構造を確認する。
あの痣は、間違いなく左手で付けられたものだ。
どうすれば、自分の左手首に左手で握った痣を付けられるんだ?
それとも密室状態のこの部屋の中に彼女以外の誰かがいて、そして忽然と消えたというのだろうか。
俺は自分の背後にあるタンスに、再び異様な気配を感じた。だがそれは俺の錯覚に過ぎないのだろう。ただの恐怖心が生み出した幻に……
171 引き出し ◆oJUBn2VTGE ウニ 2009/02/22(日) 23:51:45 ID:vbLvaS0Q0
瑠璃はその自分の左手首の痣に気づき、そこにじっと視線を落としていたかと思うと、一言ぽつりと呟いた。
「He seemed to have come to this room……」
俺は彼女の顔を改めて見る。
その時、カーテンから射し込んだ光がその瞳に反射してキラリと輝いた。今さらのように気づく。二日前と、目の色が違うことに。
あの時は確かにエメラルドグリーンだった。いかにもカラーコンタクトらしい安っぽい色をしていた。
けれど今、目の前にいる少女の目は鮮やかなブルーだ。
カラーコンタクトをしたまま眠りはしないだろう。いや、そういう常識を抜きにしても、それが彼女のナチュラルな目の色であることは直感で分かった。
「日本人じゃ、ないのか」
そう呟いた俺に、音響が横から口を尖らせる。
「だから通訳してたじゃない」
斜めに射し込む明け方の光の中に、人形のような顔をした少女が微かに微笑んだ気がした。

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