師匠シリーズ
すまきの話

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焦っていると、チャイムなどというものはおもちゃにしか見えない。早く出てくれ。慌ただしく叩かれるドアの音というのは誰だって嫌なものだから。
ガチャリ……、というカギが回る音に続いて、キィ……と微かに軋む音と共にドアがゆっくりとこちらに開かれていく。中からは、怯えたような表情の女性。
「助けて下さい」
顔を見るなり、そう言おうとして、息が止まる。違うからだ。言うべき言葉は、確か、
「これは夢ですね」
うっすらと冷え、張りつめたような空気が室内から外へ流れ出てくる。
普段着のままの歩くさんは首をかしげながら一歩下がる。つられて俺も玄関口に入り込む。

歩くさんが手を離したドアが、支えを失って俺の背後でバタンと閉じた。
歩くさんはもう一歩下がる。靴を脱がなければ上がれないので、俺はその場で止まったままだ。二人の間にある程度の距離が生まれる。
どうやらこれが、歩くさんのパーソナルスペースらしい。

937 すまきの話 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/20(土) 23:30:08 ID:sgJKT7Op0
「ケガ」
と歩くさんがこちらを指さす。見ると右足のズボンの膝が破れていてる。掌の痛みばかりに気をとられて気が付いていなかった。
「待ってて」
薬箱でも持ってこようとしたのか、そう言ってくるりと踵を返そうとした彼女を、呼び止めるように口を開いた。
「これは夢ですね」
ぴたりと動きを止めて、彼女はもう一度こちらに向き直る。
「どういうこと」
いつも表情に乏しい彼女が、眉を寄せる。

あの、公園で見た光景を説明しようとして息を吸い込んだ。けれど俺はそれきり言葉につまる。それを言葉にしてしまうと、まるで取り返しの付かない恐ろしい幻を、現実にしてしまうような気がして。
俺はとっさに本を探した。雑誌、いや新聞でもいい。なにか、膨大な情報の詰まった紙が欲しい。昔自然に身につけた、夢の中でそれが夢であると気づくための技術だ。
ほっぺたをつねるとか、なにか特定のキーワードを叫ぶとか、みんなそれぞれ夢を認識するための、あるいは夢から目覚めるためのコツのようなものを持っている。
俺の場合はそれが本を読むことだった。そこに書いてあるべき情報量を、とっさに夢を再生している脳が提供できないから、まるでボロが出た狐狸の類のように夢の世界が壊れるのだ。

しかし、歩くさんの部屋は小綺麗に片づけられていて、玄関とそこに続く台所周辺には本や雑誌類はまったく転がっていない。ドアに付属している郵便受けからこぼれ出た新聞がそのまま玄関に放置されている俺の家とは大違いだ。
説明の代わりに、俺は師匠から託された言葉を繰り返した。
「これは夢ですね」
歩くさんは、どうやら大変なことが起こったらしいと判断したのか、口調を強めて「だから、なにがあったの」と言う。

939 すまきの話 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/20(土) 23:32:49 ID:sgJKT7Op0
けれど今の自分の中にはその言葉しか存在していない。だからもう一度繰り返す。
泣いているらしい。声が震えている。誰が? 自分が? どうして?
「落ち着いて。夢って、あなたの夢ということ? だったら違う。だって……」
歩くさんはそこで言葉を切って口の中で続きをゆっくりと吟味した。
「まず、私には自我がある。自分の意思で今喋っている。これがあなたの夢ならば、ずっと続いている私の意識が、あなたの頭が生み出したつくりものだということにならない? そんな怖いことは考えたくないけど。自分のほっぺ抓ってみた?」
俺はかぶりを振る。

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