師匠シリーズ
すまきの話

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黒い。血だ。見えにくいが、ゴミ入れの下部のすべてに広がっているとしたら、かなりの量だ。
足の長い蚊が横を通り過ぎ、かすかな羽音を残してゴミ入れの中に消えた。
つばを飲む。
ガサリと、ゴミ入れからなにかが動く気配。

933 すまきの話 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/20(土) 23:14:50 ID:sgJKT7Op0
反射的に身構える。
声がした。
掠れた声。

……きたか、

どこからともなく聞こえてきたのなら、まだ良かった。声は明らかにゴミ入れの中から聞こえてくる。

……よく、聞け 時間が、ない、

その声は、容易に近寄らせない響きを持っていた。いや、それは俺の自己防衛本能が反映されていただけなのかも知れない。
そのゴミ入れは、とても小さいのだ。横から見ているだけでは口の部分より下は見えないが、大人が中に入り込むには小さすぎる。身体のパーツがすべて揃っている状態で入り込むには、あまりに。

……綾を、さがせ、携帯が、つながらない、たぶん、家、にいる、会って、こう、言え、

ゴミ入れの中から聞こえる、この世のものとも知れない声に混乱しながらも、俺は耳だけに意識を集める。

……これは、夢ですね

それきり、声は途絶えた。足の長い蚊がゴミ入れの中から飛び立ち、どこかへ消えた。
あたりは静まり返っている。
俺は息をのむ。全身に得体の知れない寒気がぞわぞわと立ち上ってくる。なにが起こっているのか分からない。
分かろうとすれば分かるだろう。足を踏み出し、ゴミ入れを覗き込みさえすれば。けれどその足が踏み出せない。思考が、脳が、大脳だか間脳だかの蒼古的な部分が、行くことを拒んでいるみたいだ。

934 すまきの話 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/20(土) 23:22:26 ID:sgJKT7Op0
ただごとでないことだけは分かっていた。俺の個人的でささやかな世界が致命的な傷を負い、もう元の形に戻らないだろうことも。ただ、血を見ても反射的に救急車という発想は浮かばなかった。
今自分のするべき最善のことは、ただ指示されたことを全うすることだと直感したのかもしれない。
頭に電流が走ったような軽い痛みの後、俺は目覚めたように走り出した。ゴミ入れから立ち上る生臭い匂いを鼻腔から振り払うように。
公園を出て、入り口の外にとめてあった自転車に飛び乗る。
大変なことになった。
大変なことになった。

力一杯ペダルをこぎ出しても、頭は混乱したままだった。
これは夢ですね?
夢なわけはない。恐ろしいくらい、リアルだ。匂いも、音も、足に、太股に乳酸が溜まっていく感じも。なにもかも。
今日一日の記憶を呼び覚ましてみる。けれど一分の隙もなく繋がっているのが分かる。さっきまでネットで検索していたサイトのことも、その前に食べたカップ麺のことも、それを食べながら高校時代の友人と電話で話したことも、鮮やかに思い出せる。
ということは、じゃあ……
そこで思考が断ち切られる。いや、押しとどめているのか。
師匠に「綾」と本名で呼ばれた歩くさんのマンションへ真っ直ぐに向かう。
途中軽い下り坂があり、スピードを維持したまま強引にGに逆らってカーブを曲がろうとした時、前から来る通行人とぶつかりそうになった。

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