師匠シリーズ
依頼

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890 依頼 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/06(土) 23:55:36 ID:+FnIW24p0
単に髪の毛の身だしなみの問題ではない。気付かないはずはないのに、横顔に垂れた髪の毛を貼り付けたままそれを直そうとしない、彼女の心理の停滞が問題なのだった。
内心、めんどくさそうなのが来やがったと思っているに違いないのに、それを全く表情に出さない小川さんはさすがプロだと変な感心をしてしまう。
「これよ」
依頼人は鞄から布のようなものを取り出してテーブルに置いた。
ベビー服のようだった。
「私のお付き合いしている男性の車に、これがあったのよ」
「と、言いますと?」
「鈍いわね。どうして分からないの」
依頼人はそう言ってなじると、鞄の口を乱暴に閉じる。
「あの人は、私には独身だ、未婚だなんて言っておいて、子どもがいたってことよ。許せることではないでしょ」
「はあ。これはその方から借りたんですか」
「そんなわけないでしょ!」
黙って取ってきたわけだ。
だいたいどういう話か分かってしまったが、これでは、仮に身辺調査の依頼を受けたとしても、彼女がそうした疑惑を持った事実も相手方に筒抜けになってしまった可能性が高い。
素人考えだが、彼女のその軽率な行動の時点で依頼を拒否する理由としては十分な気がする。
「で、どうされたいんです」
依頼人は小川さんを睨みつけるようにしながら、その男性と子どもの関係を確認するようにと言った。
依頼というよりまるで命令だ。僕は小川さんがいつ切れて、この勘違いした女を事務所から蹴りだすかと思ってハラハラしていた。
892 依頼 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/07(日) 00:01:26 ID:PyPRRLYk0
ふいに、動くものの気配を感じてあたりを見回す。
そう言えば野良猫はどうしただろう。
僕は目立たないように自然に振舞いながら席を立って猫を探した。
デスクの下に屈んで覗き込んだとき、暗がりに二つの光を見つけた。
いた。
でも捕まえようとするとちょっとした騒ぎになるのは目に見えていたので、この噛み合わない会談が終わるまで待つことにした。
「そうですね。当事務所の規定では、このくらいの料金なんですけれど、見えますか? 一日当たりの基本料金がこちらで……」
ラミネート加工された料金表らしきものを睨んで、「高いわね。どうせこれに必要経費とか言って喫茶店のコーヒー代とか入ってくるんでしょ」
そう言えば依頼人に飲み物も出してないな。師匠が同じ席についてしまっているので、お茶くみは僕の役回りなのだろうかと気を揉んでいると、依頼人が苛々した口調で「これでいい」と料金表を叩くのが見えた。
その時、気持ちの悪い感覚に襲われた。
すぐそばのやりとりが遠退いたような感じ。空虚で、中身のない感じ。
これは一体何だ。
自分の呼吸音だけが大きくなる。
パクパクと依頼人の口が動く。
言葉がよく聞こえない。
こういう時は、なにか見落としていることがある。
早く気づかなくてはならない。
頭が回転する。
分かった。
師匠が呼ばれた理由がない。
ここまでは、依頼人の人となりこそエキセントリックだが、依頼内容はありふれたもののようだ。
894 依頼 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/06/07(日) 00:08:19 ID:PyPRRLYk0
これでは、「オバケ」専門の加奈子さんに仕事が回されてきた意味がない。
「どうなの。いつまでに結果を出せるの」
依頼人がもうすでに契約が完了したような物言いをしているのが聞こえた。
「こちらのスケジュールも確認してみませんと、そちらの希望に添えるかどうかもまだ……」
そう言う小川さんの袖を師匠が引いているのが目に入った。
そして「少々お待ち下さい」と二人して立ち上がる。
一番離れた奥のデスクに行き、何かのファイルを二人で覗き込む。
広げたファイルなど見ていないことは目の動きで分かる。
僕もそちらに近づく。
師匠が声をひそめる。
「受けない方がいい」
「どうしてだ」
「あの女は嘘をついている」
「どういうことだ」
「ベビー服に微かに血を拭ったような跡がある」
ゾクリとした。
「それに、見えた」
「なにが」
「ベビー服の中身。ここに、来ている。あの女についてきた」
師匠が僕の顔を見た。
すぐに思い当たる。
野良猫ではなかったということか。
もうデスクの下は覗けそうにない。
「何を企んでいるのかわからないけど、第三者に『発見』させるつもりかも知れない。とにかく、関わらない方がいい」

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