洒落怖
逆さの樵面

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さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。
しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、『樵の舞』だけは亡失されたままでした。
樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると認識されるようになっています。

時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。

大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさりと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・

841 6/13 sage 2005/12/11(日) 20:21:06 ID:CUnu3Rn40
当時、在村の建設会社に勤務していた父は職場で「樵面発見」の報を聞きました。
社長がもともと舞太夫で、父に神楽舞を勧めた本人だったため、早退を許してもらった父は、さっそく面が見つかったという矢萩集落の土谷家へと車を走らせました。

もともと山間の千羽でも、特に険しい地形にある矢萩集落は町ほど露骨ではなかったものの、いわゆる部落差別の対象となるような土地でした。
父のころにはまだその習慣が残っていて、あまり普段は足を向けたくない場所だったといいます。
その集落にある土谷家は、もともと県境の山を越えてやってきた客人の血筋で、集落では庄屋としての役割を果たしていたようです。
江戸時代から続くといわれるその古い家屋敷に、噂を聞きつけた幾人かの人が集まっていました。
その家の姑である60年配の女と役場の腕章をつけた男が言い争いをしており、その間に父は先に来ていた太夫仲間にことのあらましを教えてもらいました。
どうやら、その日の朝に役場へ匿名の電話が入ったようです。

曰く「樵面を隠している家がある」と。
それは土谷家だ、とだけ言って電話は切られました。
不審な点があるものの、とりあえず教育委員会の職員が土谷家へ向かい、ことを問いただすと「確かに樵面はある」と認めたのでした。

842 7/13 sage 2005/12/11(日) 20:23:20 ID:CUnu3Rn40
言い争いは平行線だったようですが、とりあえず土谷家側が折れて父たちを屋敷へあげてくれました。
歴史ある旧家だけあって広い畳敷きの部屋がいくつもあり、長い廊下を通って、玄関からは最奥にあたる山側の奥座敷の前で止まりました。

どんな秘密の隠し場所に封じ込められていたのだろう、と想像していた父は拍子抜けしたといいます。
姑が奥座敷の襖を開けたその向こうに、樵面の黒い顔が見えたのです。

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