洒落怖
餓鬼道

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人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・このような話が実話で
あると言うこと自体信じられないことだが、現世における餓鬼道の現出以外の何物でもないことは
確かだ。 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようで背筋が凍りつく思いである。

892 本当にあった怖い名無し sage 2009/10/12(月) 17:08:34 ID:rPcsvBcf0
天保の飢饉(1832~39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。
しかも、飢饉は ▲7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。 鶏犬猫鼠の類まで、すべて
食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。 人々の心は荒廃を極め、盗人は
見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。

 この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。 青腫(あおばれ)と言われる
栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の
腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。

しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。
 この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が
相次いだ。 さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して
山越えして逃げ出したとある。

「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。
 ・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と
死に始めた。 そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。 夜が明けてみると、路上で
生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、
たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。

ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が
抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。
空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、
物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。

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