師匠シリーズ
貯水池

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514 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ 513は追跡ではないです。 New! 2007/09/26(水) 22:46:52 ID:gAYKdkL30
少しがっかりしながら、3回に1回くらいは向こう側に出ることもあると付け加えた瞬間、師匠の体の揺れがピタリとおさまった。
「なんて言った?」
「いや、だからフェンスのこっち側の時と向こう側の時があるって話です。立ち位置が」
師匠は首を捻りながら、へぇえと言った。僕は大学の授業で習っている中国語のピンインのようだと、見当違いなことを思った。第四声だったか。下がって上がるやつ。
「物理的な実体を持たない霊魂にとってフェンスという障害物なんてあってもなくても同じだから、こっちか向こうかなんて大した違いはなさそうに思えるかも知れないけど……実体を持たないからこそ”ウチ”か”ソト”かっていうのは不可逆的な要素なんだ。場についてる霊にとっては特にね」
だから地縛霊って言うんだ。
師匠はようやく乗り気になったようで、声のトーンが上がってきた。
「なにかあるね」
体の揺れの代わりに、左目の下を触る癖が顔を出した。そこには薄っすらとした切り傷の跡がある。興奮してきた時にはなぜか少し痒くなるらしい。何の傷かは知らない。
じっと見ていた僕に気づいて、師匠は「嫁にもらってくれるか」と冗談めかして言う。
とにかく、その貯水池に夜になったら行ってみようということになった。
しかし僕にとっては思った通りの展開だと、手放しで喜ぶわけにはいかない。なにか得体の知れない不気味な気配が、貯水池の幽霊の話から漂い始めているような気がしていた。

516 貯水池  ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2007/09/26(水) 22:48:06 ID:gAYKdkL30
そのあと、師匠が作った夕飯のご相伴に預かったのだが、これが酷い代物で、なにしろ500グラム100円のパスタ麺を茹でてその上に何かの試供品でもらったという聞いたこともないフリカケをかけただけという、料理とも言えないようなものだった。
毎日こんなものを食べてるんですか、と訊くと「今はダイエット中だから」という真贋つきかねる回答。
家賃も安いし、一体何に金をつかっているのやら、と余計な詮索をせざるを得なかった。
あっという間に食べ終わってしまい、師匠は水っ腹でも張らすつもりなのか麦茶をがぶ飲みし、トイレが近くなったようだった。
「僕もトイレ借ります」
と言って、戻ってきた師匠と入れ違いに部屋を出る。このクラスのアパートだとトイレは普通、共有なのだろうがなぜかここには専用のトイレがある。ただし一度玄関から外に出ないと行けないという欠陥を持っていた。生意気に洋式ではあったが、これがおもちゃのようなプラスチック製で、なるほどダイエットでもしていないといつかぶち壊れそうな普請だった。
便座を上げて用を足しながら(冬は外に出たくないだろうなあ)と、すでに秋も半ばというほのかな肌寒さにしばし思いを馳せた。
戻ってくると、師匠が上着をまとって「さあ行くか」と立ち上がった。
「雨、降りそうですよ」
「うん。車で行こう」
師匠の軽四に乗り込んだ時には、日はすっかり暮れていた。そして走り出して100メートルと行かないうちにフロントガラスを雨の粒が叩き始める。
「稲川淳二でも聞こう」

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