洒落怖
半世紀の苦しみ

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上野に行きつけの日本酒専門のバーがある。
大将は頑固者だが、気さくで、老若男女から人気があった。
こじんまりしたカウンターだけの店には、古くから各会の人々が三々五々集まり、
すぐに顔見知りになって、酒と肴を楽しんでた。
おいらも、通い始めて7年目になる。

その夜は、小雨の降る肌寒い日だった
「ごめんねババア」の事故以来、ずっと胸にサポーターを巻かされ、
息もろくに出来ない状態で、おいらは結構消耗していた。
何故か、急に熱いものが苦手になった。風呂に入るとき、コーヒーを飲むとき、
決まって左胸の折れた肋骨の周りが、ギューっと疼く様になっていた。
既にニヶ月以上、この状態が続いている。
不気味なことに、胸には痣のようなものまで出て来た。
どうも右手のような形にも見える。
くそ、この小さな手が、おいらの肋骨を放さない。

…考えすぎだ。
気味が悪いが、取り敢えず気のせい、ということにしていた。
こりゃ、冷酒で凌ぐしか楽しめない。
客も殆ど居ない。裸電球も数人の影を投げかけるだけだ。
小雨のはずなのに、音がやけに大きく聞こえる。
カウンターの向こうの大将も、「こりゃ早仕舞いだな」という。

その時、引き戸がカラカラと鳴って客が入って来た。

630 本当にあった怖い名無し sage 2009/11/04(水) 13:28:38 ID:qEQFSSlX0
見慣れない顔。一見だろうか?
年齢は多分七〇を過ぎている。店の大将と同じ位か。
その割には、Gジャンに濡れたサンダル、ほぼ総白髪を真ん中から分けた長髪で、
ヒッピーがそのまま年とった感じの風体だ。
「席はー、あいとるかのう?」
まるで広島弁の三船敏郎がやって来たような声だった。

「平和が一番じゃ!のぅ、そう思わんか?」
「ピースじゃ!ピース!ピース!ピース!ピース!ピース!はははははは!」
うるさいジジイだ。
何が楽しいのか、一人で騒ぎ散らして、さっきからピースを連発している。
いつもは朗らかな大将も、顔をしかめている。こういう客は迷惑だ。

「あのー、すみませんが…少し静かに呑めませんか?」
そのジジイはきょとんとして、暫くおいらを見つめ、ついで興味深そうに目を細めた。

「おにーさん、かなりヤバくなっとるのう」
「何がです?」
「後ろのも、かわいそうに…にーさん、もうフラフラじゃ。勘弁してやれ」
「?…そんなに呑んでませんよ」
最初の言葉は上手く聞き取れなかった。
てっきり、酔っ払ったおいらのことを言われていると思った。

「違うわ、わかっとらんのー」
ジジイの表情が険しくなる。
「コリャいけん。のぅ、表に出よっとかい、ワレ」

631 本当にあった怖い名無し sage 2009/11/04(水) 13:29:28 ID:qEQFSSlX0
あー、ヤバい。
殴られる、と思った。
何か言い訳を取り繕って、この場を凌ごうと思った。
言葉が出ない。
睨み付ける視線に完全に縛り付けられていた。
意識に反して、身体が席を立ち、視線に逆らえないまま、店を出てしまった。
じわじわと身体が湿ってくる。雨の音が、さっきより更に大きくなった。

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