師匠シリーズ
トイレ

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162 トイレ   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/28(土) 23:51:06 ID:quV+YcYD0
危ない。緊急時の呼び出しボタンらしい。紛らわしい所に置くなよ、と文句を言い
そうになるが、少し考えて合点がいく。体調急変時のボタンなのだから、手が届く
ところで、かつ目立つ場所にないといけないのだろう。
『洗浄』のボタンをその近くに見つけて、押し込む。
ザーッという水が流れる音がして、そしてまた静かな時間が戻ってくる。
が……
立ち上がろうとした瞬間、僕の耳はなにかの異変を捉らえた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
何か、小さな声が聞こえる。
瞬間に、空気が変わる。
重くねっとりした空気に。
僕は頭を動かさず、目だけで室内を見回す。
天井、照明、換気扇、ドア、洗面台、鏡、壁、手すり、床。
なにも変化はない。音は目には見えない。
ボソ、ボソ、という誰かが囁く様な音は続いている。
ここから逃げたい。
けれど、足が竦んでいる。
そして、足が竦んでいること以上に、僕はその声の正体を知りたかった。
『キョロキョロしたって駄目だ』
師匠の言葉が脳裏を掠める。
僕は考える。誰かの口が、動いているイメージ。イヤホンから何かが聞こえるイメ
ージ。ラジオのスピーカーの無数の穴からそれが聞こえるイメージ。
そうだ。音はいつも「穴」から聞こえてくる。

163 トイレ   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/28(土) 23:55:32 ID:quV+YcYD0
僕は視線を床に落とした。
タイルの真ん中に、排水溝の銀色の蓋が嵌っている。
便座から立ち上がり、屈んでその排水溝を覗き込む。中は暗い。照明を遮る僕自身
の影の下で、何も見えない。
……ボソ……ボソ……ボソ……
囁き声は、この下から聞こえてくる。
僕はタイルに手をついて、排水溝に耳をつけた。正面の白い無地の壁を見ながら、
心は真下に向けて耳を澄ます。
…………ボソ…………ボソ…………
遠い。聞き取れない。さっきよりももっと遠い。
何も聞き取れないまま、やがて音は消えた。
僕は身を起こし、その場にしゃがみ込む。
なんだ?
何事も起きないまま、怪異は去った。
いや、そもそも怪異だったのかすらよく分からない。ただ小さな声、いや、音が聞
こえたというだけだ。
その時僕の頭に、ある閃きが走った。
もう一度、『洗浄』のボタンを押す。水が流れる音がして、やがてその一連の音も
収まる。そして聞こえてきた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
もう一度、排水溝に耳をつける。
今度は空気の流れを、耳の奥にはっきりと感じる。

164 トイレ   ◆oJUBn2VTGE ウニ 2008/06/28(土) 23:58:50 ID:quV+YcYD0
どういう仕組みかわからないが、便座洗浄をするための水が流れると、振動だか水
圧だかのせいで、排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。
くだらない。
肩の力が抜けた。
師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて大したことないな。
そんなことを考えていると、笑いが込み上げてくる。このトイレの話をした時の、
彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。
(そういえば、最後に変なことを言ってたな)
確か……
『利き耳はだめだ。利き耳は、現実の音を聞くために進化した耳だからだ。いつだ
って、この世のものではない音を聞くのは、反対側の耳さ』
バカバカしい。
師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。
僕は薄笑いを浮かべながら、左の耳たぶを触る。今まで確かになんの意識もせずに
右の耳を排水溝に近づけていた。考えたことはなかったが、右が僕の利き耳だった
のだろう。
だけど左で聞いたからってどうなるっていうんだ?
師匠を馬鹿にしたい気持ちで、僕はもう一度床のタイルに両手をついた。
さっきと同じ格好だ。入り口のドア側から体を倒して床に這いつくばっている。排
水溝は個室の真ん中にある。奥側は便座がある分、這いつくばるようなスペースが
ないからだ。
スッと左の耳を床に向けた時、得体の知れない悪寒が背筋を走りぬけた。
何だろう。タイルについた膝が震える。
だけど止まらない。僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、その穴に左の耳がぴった
りとくっついた。

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