洒落怖
ドラキュラ

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233 本当にあった怖い名無し sage 2013/02/12(火) 08:54:29.55 ID:EftgH6kb0
彼はまた、身の毛のよだつ恐ろしい処刑方法を考案した。例えば母親と幼児を共に串刺しにしてみたり、母親の乳房の片方を抉り落とし、
幼児の頭をそこに押し込んだ上で串刺しにしたこともある。
大きな鍋を作らせ、その上に穴を開けた板を渡して捕虜の頭を突き出した形で釜茹でにしたこともあった。
釜茹でにされた捕虜は熱せられるにつれ、あまりの熱さに顔は醜くボールのように赤く膨れ上がっていった。
やがて沸き返る熱湯の中で絶叫を上げてのたうち回り、最後には悶絶死するのである。
彼はその過程をまるで喜劇でも観るように愉快そうに食事をしながら、時には杯を傾けながら楽しんだ。
彼の最も好んだ事は、串刺しにされた犠牲者が林立する中に食卓を置いて祝宴を開くことだった。そしてカ二バリズムを盛んに行った。
ある地主貴族を処刑した時にはその死体を煮込んで料理を作った。そして殺した貴族の友人を多数招待してその料理をふるまったのである。
何も知らない彼らはその料理を食べさせられた挙句に串刺しにされて殺された。
盗みを働いた犯人を捕らえたことがあったが、犯人を釜ゆでの刑にして殺し、それをジプシー達に食べさせたこともある。

ブラド3世はオスマン側から公位承認の代償でもある貢納金を支払おうとせず、あらゆる要請にも応じることはなかった。
それどころかしばしばトルコ軍の前線基地を襲撃しては略奪などの挑発行為を繰り返していたのである。
時に1462年6月、十数万という圧倒的な大軍を擁してオスマン帝国皇帝メフメト2世はワラキアの首都目指して進撃を開始した。
それに比べてワラキア公国では緊急に徴集した農民兵まで入れても3万に満たぬ兵力だった。
ローマ教皇から巨額の軍資金を受領してワラキア公国に援軍を送る手はずになっていたハンガリー、モルドバ、トランシルバニアなどの国々は再三の要請にも関わらず援軍を送ろうとはしなかった。
どの国も領土拡張闘争の最中でワラキアのことは眼中になかったのである。
孤立無援のワラキア公国は単独でこのオスマンの大軍と戦わねばならなくなった。

234 本当にあった怖い名無し sage 2013/02/12(火) 08:55:14.50 ID:EftgH6kb0
そこでブラド3世は少数の兵力で夜襲を決行し、一挙に戦局の逆転を図ろうとした。まともに戦って勝てる相手ではなかったのである。
狙うのはメフメトただ1人に決め、全員一丸となって集中攻撃を敢行することにしたのである。
そのため部下にあらかじめメフメトの幕舎の見取り図を頭にたたき込ませ、闇の中でも自由に行動できるようにした。
作戦は決行され、予想通り暗闇の中での凄まじい白兵戦となった。
しかしメフメトは強力な親衛隊に何重にも取り囲まれており、なかなか近づくことすら出来ない。
そうこうしているうちに夜が明け始めた。少数の侵入軍が敵の大軍にその姿をさらすことにもなればもはや全滅は避けられない。
ブラドはやむなく全部隊に撤退命令を出した。
素早く兵をまとめたブラドは首都には戻らずそのままトランシルバニアの山岳地帯目指してとん走していった。
メフメトを討ち取ることはできなかったものの、オスマン側の損害は大きかった。だが数日後にはオスマン軍は再び進撃を開始した。
ワラキアの首都を目指して進撃してきたトルコ軍はそこで異様な森に出くわした。
遠くのうっすらと霞のかかる地平線上に姿を現したそれは森のようにも見え、先端だけに枝葉がひっついているだけの枯れ木の集団のように思われたが、近づくにつれてそれは兵士たちを恐怖の坩堝に叩き込んだ。
枯れ木と見えたのは立てられた杭であり、枝葉と思われたのはその上に串刺しにされたトルコ軍の捕虜の死体だったのだ。
死体はかなりの日数が経過していると見られ、半ば白骨化して首や手足のもげた状態で腐乱して原形を留めているものは少なかった。
頭上には何千という禿鷲やカラスがバタバタと無気味な音をたてて群がっていた。初夏の咽せ返るような湿気と混じり合って
吐き気を催すものすごい悪臭がそこら中に漂っていた。この串刺し死体の群れは2万以上もあると見られ、遥か彼方まで延々と切れ目なく続いていた。
この地獄のような光景に進撃してきた兵士の多くが取り乱した。ある者はうずくまって激しく嘔吐し、ある者は跪いて泣き叫んだ。
これら串刺しにされたトルコ兵達は4ヶ月前にブラドの率いるワラキアの奇襲に合って捕虜になった2万4千名の成れの果てだった。

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