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388 海 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2006/12/02(土) 14:25:45 ID:Q8VwWIU/0
どれくらいたったのか、ざあざあという生ぬるい潮風に顔を突き出したまま
ぼーっとしていると、ふいに人影のようなものが目の前を横切った。
思わず目で追うと、たしかに人影に見える。漂流物とは思わなかった。なぜ
ならそれは、子供の背丈ほども海面に出ていたからだ。
俺は固まったまま動けない。
ただゆらゆら揺れながら遠ざかっていく暗い人影から目を離せないでいた。
海の只中であり、樹や、まして人間が立てるような水深のはずがない。
視界は狭く、ゆっくりと人影は闇の中へ消えていったが俺は震える声で、
あれはなんでしょうか、と言った。
師匠は首を振り、「海はわからないことだらけだ」とだけ呟いた。
懐中電灯をつけたくなる衝動にかられたが、なにか余計なものを見てしまう
気がして出来なかった。
ガチン
という音がしてアナクロなテープレコーダーの録音ボタンが元にもどった。
自動的に巻き戻しがはじまり、シャァーという音がやけに大きく響く。
師匠がテレコの方へ移動する気配があり、わずかに船が揺れた。
「聞いてみる?」
そんな声がした。
ここで?
俺は無理だ。俺や師匠の部屋ならいい。いや、あえていえば普通の心霊
スポットで、くらいなら大丈夫だ。
しかしここは、陸地から離れて波間に漂うここは、海面より上も下も人間の
領域ではないという皮膚感覚があった。
三界に家無し、という単語がなぜか頭に浮かび、頼るもののない心細さが
猛烈に襲ってきた。なにかが気まぐれにこの小さな船をひっくり返しても、
この世はそれを許すような、そんな意味不明の悪寒がする。そんなことを
考えながら船のヘリを渾身の力で掴んだ。
そんな俺にかまわず、師匠はガチャリとボタンを押し込んだ。
389 海 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2006/12/02(土) 14:26:50 ID:Q8VwWIU/0
思わず耳を塞ぐ。
バランスが崩れないよう、足を広げて踏ん張ったまま俺の世界からは音が
消えて、テレコの前に屈みこんだままの師匠が、停止ボタンを押された
ように動かなくなった。
俺はその姿から目を離せなかった。
胸がつまるような潮の生臭さ。
板子一枚下は地獄。
ああ、漁師にとってのあの世は海なんだな、と思った。
波に合わせて揺れる師匠の肩口に人影のようなものが見えた。
ふたたび、海に立つ影が船のすぐ真横を横切ろうとしていた。
顔などは見えない。どこが手で、足でという輪郭すらはっきりわからない。
ただそれが人影であるということだけがわかるのだった。
師匠がそちらを向いたかと思うと、いきなり何事か怒鳴りつけて船から
半身を乗り出した。凄い剣幕だった。船が一瞬傾いて、反射的に俺は逆方向
に体を傾ける。
人影は立ったまま闇の中へ消えていこうとしていた。
師匠は乗り出していた体を引っ込め、船尾のモーターに取り付いた。俺は
バランスを崩し、思わず耳を塞いでいた両手を船の縁につく。
なんだあれ、なんだあれ。
師匠は上気した声でまくしたて、エンジンをかけようとしていた。
回頭して戻る気だ。
そう思った俺は、その手にしがみついて、ダメです帰りましょうと叫んだ。
師匠は俺を振りほどいて、言った。
「あたりまえだ、つかまってろ」
すぐにエンジンの大きな音が響き、船は急加速で動き始めた。
塩辛い飛沫が顔にかかるなかで俺は眼鏡を乱暴に拭きながら、かすかに見える
灯台の光を追いかける。
後ろを振り返る勇気は、なかった。