この怖い話は約 3 分で読めます。

話を聞き終えた半四郎は、「それでは」と切腹の準備に掛かったが、その前に最後の望みとして、
井伊家中で知られた腕利きに介錯をしてもらいたいと言い出した。斎藤はその希望を聞き入れたが、
半四郎が名を挙げた沢潟彦九郎は病欠、次に挙げた者も病欠、三人目も病欠だった。
不審を感じた斎藤は沢潟の元に使いを走らせた。
半四郎はそれを見送った後、「では、拙者の身の上話でも」と、静かに語り始めた。

半四郎はもと広島藩士だったが、藩主の福島家は僅かな瑕疵から幕府によって取り潰され、
家中は散り散りとなって半四郎も浪人になった。先の話に出てきた求女は
かつて腹を切った自分の親友の子であり、娘婿だった。
半四郎は求女夫妻、孫と一緒に江戸に出てきたが、新たな士官先があるわけでもなく、生活は苦しかった。
そんな折、娘が病に伏せ、孫もまた高熱を出した。しかし医者に診せる金はない。
刀を売れば幾許かの金にはなるが、武士の魂を金に換えることを半四郎は思いきれなかった。
すると、求女は金策に心当たりがあると言って何処かへ出掛けていった。
夕刻になっても戻らず心配していると、井伊家の者が求女の死体と共に半四郎の家を訪れる。
井伊家の者は事の次第を説明すると、「竹光の切腹は見苦しい」と言い捨てて帰って行った。
半四郎は求女が生活のために刀を売っていたことも知らなかった。
悲しむ娘の傍らで半四郎は自分の刀を抱き、「俺は、こんな物のために……!」と慟哭する。

「奈落の底に喘ぎうごめく浪人者の悲哀など、衣食に憂いのない人には所詮わからぬ。
所詮武士の面目などと申すものは、単にその表面だけを飾るもの」と、半四郎は斎藤に語りかけ、
そちらも武士であるならば、なぜ一両日の猶予を願う求女に、
その理由を聞いてやるだけの情けを持たなかったのかと訴える。

590 : 4/4 : 2012/04/13(金) 19:22:24.16 ID:BtyJHxQx0

そこへ、使いの者が帰ってくる。沢潟彦九郎は病が重く面会できないという。
すると、半四郎は懐から髷を取りだした。半四郎が介錯を願いたいと名を挙げた3人は
特に求女をなぶった者であり、いずれも半四郎に髷を取られていた。
3人は江戸中に轟いた剣の使い手だったが、戦国の世を生きた半四郎はそれを遙かに上回っていた。
「実戦の経験を経ぬ剣法など所詮は畳の上の水練」。髷をひとつひとつ放り投げながら、半四郎は言った。
「武士道などと言いながら、髷が伸びるのを待って出仕もできぬ腰抜けばかり。
それでよくも金に困った若者をなぶり殺しにできたものよ。
どうやら井伊の武勇とやらも、所詮武士の体面の上辺だけを飾るもの!」半四郎は哄笑した。
斎藤は狼狽し、手下に半四郎を斬るよう命令する。半四郎は家中の者を相手に大立ち回りを演じるが
邸の奥で鉄砲を持ち出され、命運尽きたと腹を切って果てた。
多くの者が半四郎に斬られたが、斎藤は「井伊家中に浪人者に斬られる者などおらぬ。
津雲半四郎は切腹、死傷者は病死とせよ」と命じた。破壊された箇所も血の痕跡も速やかに消された。
江戸の街に改めて井伊家の武勇は鳴り響き、老中よりも賞讃の言葉があったと記録には伝わる。

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