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ドラキュラ

この怖い話は約 3 分で読めます。

ルーマニアの首都ブカレストから北西に80キロ行ったところにトルゴビシテという小さな町がある。
その中央に城跡があり、今では一面芝生に覆われているがこの古城こそ19世紀に書かれた「吸血鬼ドラキュラ」のモデルにされ
血を見ることが何よりも好きだった猟奇的な君主、ブラド3世の居城である。
その残虐の限りを尽くして綴られた呪われた過去とは一体どのようなものであったのだろうか?

通称串刺し公として知られるブラド3世は1431年2月、トランシルバニアの古い城塞都市に生まれた。彼の父ブラド2世はハンガリー王国から
イスラムと戦うという意味の「ドラクルの騎士」の称号を送られた上に所領を与えられた。
ハンガリーは彼に必要な援助を約束して現在のルーマニアであるワラキア公国の君主として承認することで、押し寄せるイスラムの脅威からの防波堤という役割を彼に荷なわせたのである。
しかしワラキア公としてトルゴビシテに首都を構えたブラド2世は、たちまち隣接するオスマントルコ帝国の重圧に直面することになった。

オスマン帝国は彼にワラキアの公位を認める見返りとして多額の貢納金を要求してきた。
断れば圧倒的な軍事力で一気に粉砕されることは明らかであった。
こうしてワラキアはトルコとの間に屈辱的とも言える隷属関係に組み入れられてしまった。
この結果、ワラキア公国はイスラムの防波堤になるどころか皮肉にもバルカン侵攻を図るオスマン軍の先鋒を務めることになってしまうのである。
しかもブラド2世の忠誠に疑問を抱いたオスマン帝国は、彼の息子を人質に取る事を要求してきた。
当時13才だったブラド3世は人質として
トルコの首都に留め置かれることになった。以後5年間、ブラド3世は不安な人質の日々を過ごす事になるのである。

231 本当にあった怖い名無し sage 2013/02/12(火) 08:50:54.85 ID:EftgH6kb0
一方トルコ側に寝返ったと思い込んだハンガリー王国は激怒した。ワラキアにトルコ戦への参加を迫って来たのである。
ブラド2世はトルコで人質になっている我が息子を気づかいながらも義務を遂行したが、ブラドに反感を持つ貴族たちによって長男もろとも捕らえられた。
そして沼地のほとりにある修道院で惨殺されてしまった。
兄の方は鎖に繋がれて連行され、自分の墓穴を掘らされた上に生きたまま埋葬されたのである。
そこでオスマン帝国は空位となったワラキアの君主の座に人質として捕らえられていたブラド3世を推すことになった。
トルコ側としては人質期間の5年にわたるトルコの教育により、ブラド3世がトルコにとって好都合で従順な君主になることを期待していたのである。
言わばトルコの傀儡政権の切り札としての任務を与えられていた。
しかしワラキアの新君主になったブラド3世は、結果的にはトルコを裏切りハンガリー側に走ってしまう。彼は心の底ではトルコを憎んでいた。
彼が5年間の人質期間に最も影響を受けたのは皮肉にも政治面ではなく、トルコの伝統でもあった串刺しの刑であった。
ワラキアの君主に返り咲いたブラド3世は、この串刺しの刑をあたかも自分の専売特許のように行い、おびただしい数の人間を殺し、
残虐の限りを尽くして恐怖の絶対君主となっていくのである。

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