後味の悪い話
睡蓮

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百合小説の元祖、吉屋信子の『花物語』の一篇「睡蓮」

ある女流画家の弟子に、寛子、仁代という特に達筆な二人の少女がいた。
寛子は富裕な家の箱入り娘、仁代は福岡は博多の出だったが、
母子のみの家庭で一人身を立てねばならず、上京して画家の内弟子になっていた。
境遇に違いはあったが、二人はとても仲が良かった。
特に仁代は寛子に対して強い憧れを抱いていた。

二人は昨年揃って落選していた若手画家の登竜門である展覧会に出す絵を描くため、題材を睡蓮に決めた。
植物園を訪れ二人並んで絵を描いていると、寛子が仁代に
「好い物をあげましょうか」と言って、上品な夏手袋を差し出した。
それは二人お揃いで、寛子が仁代のために買っておいた物だった。
「まあ美しい!」と仁代は目を輝かせたが、すぐに表情が沈む。
その様子を訝しんだ寛子が気に入らないのかと尋ねるが、仁代は要領を得ない。
少し気を悪くし始めた寛子の様子を見て、仁代は思い詰めたあげくに声を震わせながら理由を打ち明けた。
「堪忍して頂戴。私――私――あの、指がいけないんですから――」
仁代の左手は、生まれつき小指と薬指が癒着していた。
それを見た寛子は唖然としたが、すぐに仁代を優しく慰めた。
そして、こんな物を持ってきて嫌な思いをさせて本当に悪かった、私はちっとも知らなかった、
言わなければ誰にも分からないようなことで悲観する必要はない、私も友情に誓って誰にも言わないから――
と言って、仁代の左手を握って口づけをするように唇に近付けた。
仁代は寛子の優しい気遣いに感激して涙ぐんだ。

468 : 2/3 : 2012/04/07(土) 10:14:23.73 ID:VGJ2c4aB0
下描きが終わり、寛子が仁代を家に招いての着色作業も終わり、いよいよ絵が完成する段になって
お互いがお互いの絵に題を付けよう、ということになった。
仁代は寛子の絵に「睡蓮咲く頃」と名付け、寛子は仁代の絵に「水の面」という題を付けた。
そして寛子は言った。もしまた落選したとしても、あんなに二人が協力して描き上げた絵なのだから、
二人の友情の思い出のためだけでもいい、それだけで充分報われる――と。
仁代は何も言わなかったが、心の中で何度も肯いた。
そして今や、仁代が寛子を想い慕う気持ちは、動かし難いものになっているのを感じた。

絵を出品した後、仁代は寛子が睡蓮の精として現れる夢を見た。
しかしその夢では、いくら名を呼びかけても、寛子は素っ気なく冷たい素振りを見せ、
やがて睡蓮の花の影に隠れてしまった。

そして入選作発表の日、入選者を知らせる新聞には、居並ぶ画家の中でも
特に仁代の写真が添えられ、苦学して画家を志し云々、と大きく取り上げられていた。
一方で寛子の「睡蓮咲く頃」は選に漏れていた。
口々に祝福の言葉を掛ける人たちの輪の中で、仁代の心は複雑だった。
寛子と一緒に入選できていれば、いっそ入選したのが寛子だけだったら、何の躊躇もなく喜びに浸れたのに。
この想いを伝えようと、少しでも寛子を慰めたいと、仁代は後日稽古にやってきた寛子に言葉を掛けた。
すると寛子は不快感も露わに、同情や慰めはよして、あなた少し残酷よ――と、
仁代に見向きもせず言い返した。そして弟子達の輪の中に入ると、苦り切った口ぶりで
「どうせ当選するような人は、特別な人よ」と言い放った。
この言葉に、選考に何か裏があったのかと食い付いた弟子達に、寛子は言った。
「だって、どっか不具だったりする方の意気込みは、私たちの遊び半分のようなものとは違うでしょうから」
弟子達は静まりかえった。「不具」が誰のことを指しているのかは明らかだった。

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