師匠シリーズ

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734 墓 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/08/16(日) 11:08:59 ID:yWlHCO0/0
暑い。
我慢ができなくなり、上着を脱いで腰に結んだ。
一息ついて山道を振り返る。
林道が何度も折れ曲がりながら山裾へ伸びている。下の方にさっき降りたバス停が見えるかと思ったけれど、背の高いスギ林に隠されてしまっていた。
右手に握り締めた紙が汗で柔らかくしなっているのがわかる。
街を出るときは今日は冷えそうだと思ってそれなりの服装をしてきたのに、思いのほか強い日差しと山道の傾斜が日ごろ運動不足の身体を火照らせていった。
「よし」
たった一人だ。誰に咎められるわけでもないけれど、早く先へ進もうと思った。
足を踏み出す。

そのとき、遥か高い空から一筋の水滴が頬に落ちてきた。ハッとする。
山の天気は変わりやすいというけれど、見上げる彼方にはただの一つの雲もない。風を切る鳥の翼も見えない。
指で頬を拭う。
大気中の水分が、様々な物理現象の偶然を通り抜けて結晶し、落ちてきたのだろう。
ふいに、そうして立ち止まって空を見ている自分を、もう一人の自分が離れた場所から見ているような感覚に襲われた。
このごろはそういう、自分で自分を客観的に見てしまうのを止められないということがたまにあった。
本で調べたことがあったが、離人症という病気の症状に近いようだった。
そら。

首を捻るぞ。
不思議だな。そう思う。
そうしてまた歩き出すだろう。
ちょっと不思議でも、しょせんただの雨粒なのだから。
そんなことより、わざわざこんな山の中までバスを乗り継いできたんだ。
早く進もう。
どうしたんだ。
立ち止まったまま。

735 墓 ◆oJUBn2VTGE ウニ New! 2009/08/16(日) 11:12:39 ID:yWlHCO0/0
そんな取るに足りない出来事に、なぜ心を奪われる?
無意味だよ。
考えたって、きっと意味なんてない。
それでも君は待っている。
誰かが静かな声で問いかけるのを。
「…………って、知ってるか」
そして日常のすぐ隣にある奇妙な世界を覗かせてくれるのを。
目に映っているのに、そんな場所にあるなんて思いもしなかったドアを開けてくれるのを。
けれど知っている。
今はそれも無意味だと。
さあ先に進もう。いくら待っていても、その人はドアの向こうに消えてしまったのだから。

大学三回生の冬だった。
オカルト道の師匠がいなくなってから、ようやくそのことを自分の中で整理をすることができるようになりはじめたころ。
俺は師匠のことを知る、ある人物から一枚の地図を手渡された。市販のものではない。半紙に手書きされたものだ。
「一度行ってみるといい」
他に客のいない喫茶店は、自分の知らない過去の匂いがして居心地が悪かった。
「なんですかこれ」
目立つ矢印のついた地図に目を落としながら訊いた俺に、彼はよれたネクタイの先をいじりながら言った。
「墓だ」
彼岸は過ぎちまったけどな。
彼はそう言ってカウンターのマスターに向き直るとジェスチャーで水を頼んだ。
誰の、とは訊かなかった。すぐにわかってしまったからだ。

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